6. 賜物
こんにちは、SUZUME-SUZUMEです。今日は賜物についてお話したいと思います。
賜物についてはコリントの人々への第一の手紙の12章から14章で詳しく述べられていますが、賜物は神に栄光を帰するため、教会を作り上げるため、他の人の利益となるために、わたしたちひとりひとりに与えられています。
奇跡を行う賜物、癒しの賜物など、特別に大きな賜物を与えられている人もいますが、受洗してキリスト・イエスに結ばれることによって同じ霊を持つ身体の一部となったわたしたちには、「神の住まいを築きあげるために」、(エフェソ4章22節)みな、それぞれに賜物が与えられています。
そして、「ひとりひとりに、キリストから受けた賜物の種類に応じた恵みが与えられ」(エフェソ4章7節)ています。
そして、「ひとりひとりに、キリストから受けた賜物の種類に応じた恵みが与えられ」(エフェソ4章7節)ています。
つまり、賜物をいただいたのなら、それを神の栄光のために使う恵みも与えられているというわけです。
みなさんは、そのような自覚をお持ちでしょうか?
わたし、SUZUMEは、ミオに出会うまで、そのようなことを考えたことはありませんでした。
わたしに賜物がある、、、、などと思ってもみませんでした。それは、わたし個人のために与えられているのではなく、からだ全体(教会)の利益のために与えられている、と考えてみたことはありませんでした。
神様は、お望みのままに、お望みの人に賜物をお与えになるのだということを、わたしはミオを通して学びました。
わたしに賜物がある、、、、などと思ってもみませんでした。それは、わたし個人のために与えられているのではなく、からだ全体(教会)の利益のために与えられている、と考えてみたことはありませんでした。
神様は、お望みのままに、お望みの人に賜物をお与えになるのだということを、わたしはミオを通して学びました。
たとえ、その器がどれほど貧弱でも、神様はご自分の栄光を現すためにその器、あるいは道具をお望みのままにお使いになるのです。道具はその賜物を使う恵みはすでに与えられていることを信じ、ただ、「はい」と言うことだけでいいのです。
ミオ自身もたくさんの賜物をいただいていますが、とてもユニークなのは、「他の人がどんな賜物を与えられているかを知る賜物」があるということです。これは、預言やヴィジョンと同じように、上智の賜物に属するのではないでしょうか。
例えば、ミオは、歌を聴く賜物、つまり、天国で天使や聖人、煉獄の霊魂が歌っている歌を聴く賜物がありますが、自分では歌を歌うことができません。でも、歌の賜物を持つ人たちのうちの誰がその同じ歌を聴いているかを知る賜物があります。
この賜物によって、ミオはこれまでに数多くの「天上の歌を聴く賜物と歌の賜物」を発見して来ました。
その賜物を持っている人は、音楽の才能がある人とは限りません。それどころか、まったく音楽の知識のない人もいます。(これは、わたし、SUZUME自身のことですが…。)
これまでミオがヨーロッパで発見したその賜物を持つ人々によって、1000曲以上もの歌が聖霊に与えられました。
これまでミオがヨーロッパで発見したその賜物を持つ人々によって、1000曲以上もの歌が聖霊に与えられました。
これらの讃美の曲を歌ったり、あるいはただ聴くだけでも、内的、および身体的癒しが起こっています。
ミオは日本でもこの賜物を持つ人々を幾人か発見しており、歌の賜物の他に、絵の賜物を持った人たち、預言やヴィジョンの賜物を持つ人々も発見しています。
軽井沢のセミナーに持ち寄られた、絵の賜物のある人たちの作品。 写真はクリックすると大きくなります。
聖霊にいただいた曲のCDと歌集、およびミオの講話のDVD
ミオは、しかし、自分自身で自分がいただいている賜物を知ることが大切だ、とも言います。ミオ自身は、自分で自分の中の賜物を発見しました。
それは、イエスさまとの対話によって、またイエスさまのみ声を聴くことによって、知ることができます。
具体的に言いますと、神との対話とはロザリオやその他の祈りをすること。み声を聴く、とは黙想や念祷による内的祈り、あるいは心の祈りをすることです。
ミオは、ご聖体の前で数ヶ月間、毎日祈り続けました。
さまざまな賜物をいただくためには、対神徳の「信仰、希望、愛」の三つのもっとも大切な徳をいただくように、さらにそれらが強められるように祈ること、同時に「喜び」の賜物も祈り求める必要がある、とミオは言います。
「愛」がなければ、どれほどの賜物をいただいていても、わたしたちは「鳴るドラ、響くシンバル」でしかないと、コリント13章1節に書かれていますが、この「愛」を学ぶためにも、この賜物、徳のために祈る必要があると思います。
「愛」がなければ、どれほどの賜物をいただいていても、わたしたちは「鳴るドラ、響くシンバル」でしかないと、コリント13章1節に書かれていますが、この「愛」を学ぶためにも、この賜物、徳のために祈る必要があると思います。
ですから、セミナーの初日は、そのために司祭方がミオと共に按手してひとりひとりに祈ってくださいます。
こうして、日本の教会のため、日本の人々のため、日本の国土のために、わたしたちひとりひとりが、主の道具として、み言葉を伝えられる者、証しする者となるお恵みがいただけますように祈るため、ミオはこれからも日本に来る予定でいます。
しかし、ミオは、「なんでもミオに祈ってもらえば解決する」という風には思って欲しくないのです。それぞれが賜物に気付いて、神様と自分との関係を強く、太くしていって欲しいと願っています。
そして、賜物を学び、育てて欲しい、と願っています。
しかし、ミオは、「なんでもミオに祈ってもらえば解決する」という風には思って欲しくないのです。それぞれが賜物に気付いて、神様と自分との関係を強く、太くしていって欲しいと願っています。
そして、賜物を学び、育てて欲しい、と願っています。
自分がいただいている賜物に気付いたとき、賜物においてその人はまだ赤ちゃんです。その賜物を使うことはまだできません。みことばを食べて栄養をたっぷりいただいて育ってゆくと、座れるようになり、ハイハイするようになり、ひとりで立てるようになり、歩けるようになります。
そして、その人の賜物が十分に育ったら、野山を駆け巡れるほどになります。
わたし、SUZUMEは先にも書いた通り、音楽の知識はまったくありませんが、ミオに始めて出会ったとき(2007年のドイツでのセミナー)、「天上の歌を聴く賜物がある」とミオに言われました。
非常にめんくらいました。何を言っているのか、意味もよくわかりませんでした。
でも 、確かにその夜、メロディが聴こえて来ました。
翌朝、みなの前で歌うように言われ、さらに面食らいました。
そのときから、聴こえて来た歌を楽譜に起こす作業をするようになりましたが、音楽の知識がまったくないため、今でも完璧に行うことはできません。まだ、精一杯賜物を学んでいるところです。
上でご紹介したCDや歌集には音楽的な間違い、お聴き苦しいところもあると思いますが、どうぞお許しください。そして、どうかわたしのためにもお祈りいただければ幸いです。
すべては神の栄光となりますように!
聖霊がわたしたちの心を照らし、守り、導いてくださいますように。
聖母マリアの執りなしによって願います。 アーメン
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<参考までに>
コリントの人々への第一の手紙 12章4節〜11節
霊の特別な恵みにはいろいろの種類がありますが、恵みをくださるのは同じ霊です。奉仕にはいろいろの種類がありますが、仕えるのは同じ主に対してです。働きにはいろいろの種類がありますが、すべてのもののうちにあって、すべてのことを行われるのは、同じ神なのです。
人それぞれに霊が現れてくださるのは、全体の利益のためです。すなわち、ある人には霊を通して知恵の言葉が、ある人には同じ霊によって信仰が、ある人にはその唯一の霊によって病気を治す特別の恵みが、、またある人には奇跡を行う力、ある人には預言、ある人にはいろいろな霊を見分ける力、ある人にはさまざまな異言、ある人にはその異言を解釈する力が与えられます。
以上すべては、唯一の、また同じ霊の働きであって、霊はお望みになるままに、人それぞれに恵みを分けてくださるのです。
以上すべては、唯一の、また同じ霊の働きであって、霊はお望みになるままに、人それぞれに恵みを分けてくださるのです。
カテキズムより
1831 聖霊の七つのたまものとは、上知、聡明、賢慮、勇気、知識、孝愛、主への畏敬です。これらを完全な形で持っておられるのが、ダビデの子でるキリストです。これらのたまものは、これを授かる人々の諸徳を補足し、完成させ、素直な信者を神の勧めに喜んで従うようにさせてくれます。
1832 聖霊の実とは、聖霊がわたしたちのうちに永遠の栄光の初穂として実らせる完徳です。教会の伝承は、十二の実を挙げています。「・・・実は愛であり、喜び、平和、忍耐、寛容、親切、善意、謙譲、誠実、柔和、節制、貞潔です」(ガラテヤ5・22−23 ブルガタ訳)