17. 癒しの祈りについて
こんにちは、SUZUME-SUZUMEです。
今日は「癒しの祈り」についてお話したいと思います。
少し、わたしの個人的なことも書くかも知れませんが、どうぞお付き合いください。
みなさんの中には、「癒しのために祈る」ということが理解できない方もいらっしゃるのではないでしょうか?
実は、わたしSUZUMEもその一人でした。
わたしは三十才を過ぎたころにマリア様を通してイエス・キリストを知り、カトリックの洗礼を受けましたが、洗礼前、洗礼後に読みあさったカトリック関係の本の中には、「苦しみ、悲しみ、病、人から不当に扱われること、などなどの自分の十字架をすべて主にお捧げすることの素晴らしさ」が書かれていました。これぞ「主のあとに続く」ということ、「主に似た者になる」ということ、、、、そう理解しました。
(実行までには至りませんでしたが、、、。)
ところが、わたしが10年ほど前に出会った「聖霊による刷新」の集いでは癒しを願って祈るのでした。
癒しを願うなんて! 、、、わたしが信じていた「信者としての生き方」との大きなぶれを感じました。
でも、実際にたくさんの人が、内的、肉体的に癒されて行くのを目の当たりにしたのです。祈りに応えて主が癒してくださっているなら、やっぱり癒しを願うのはみ旨に適ったことなのかしら????
何よりも、「主に出会い」「聖霊を体験する」ことが、特に聖人の道を歩いているわけでもないわたしにもできたことが非常な驚きとなりました。
わたしは、「聖霊刷新運動」というものをじっくり知りたいと思い、それからは色々な集いに参加するようになりました。
「聖霊刷新」と一言で言っても、カトリックの中でもグループによって祈り方が違うようでした。
わたしは、ご聖体(ごミサ、ご聖体礼拝)を中心として、聖母の執り成しを大切にするやり方に魅かれました。
聖母のいらっしゃるところに聖霊は特別な方法で来て下さり、働いてくださると聖グリニョン・モンフォールがおっしゃっていることを体験させていただいたからです。
わたしは5、6年間、そういう指導をされる司祭やシスター方の祈りの集いに定期的に参加し、また頻繁に黙想会にも参加しました。
司祭やシスターの祈り、そしてわたし達信者の祈りに応え、聖霊が不思議な方法でたくさん働かれるのを見ました。わたし自身も内的、身体的癒しもいただきました。
それでも、「癒しを願っていいのかしら?」という疑問はわたしの中でくすぶっていました。
そして、2007年5月。わたしははじめてミオの信仰刷新セミナーに参加しました。このミオによって、主はわたしの疑問を解いてくださいました。
ミオはこう言います。
「主のお望みでない病気や苦しみ、傷から癒されるように具体的に祈る必要がある。」
なんと、こんなに単純な事でした。
では、主のお望みではない苦しみ(病気、精神的苦しみ、その他の苦しみを含む)とはどんな苦しみでしょうか?
それは、おおまかに
1.「私自身の罪が原因の苦しみ」
2.「先祖の犯した罪の苦しみ」
3.「今住んでいる土地に関わりのある霊魂が過去に犯した罪の苦しみ」
の三つに分けられるとミオは言います。
これは、ミオの体験から出た言葉です。
わたしは、聖人伝を読んで、聖人達が人から不当な扱いを受けたり、大きな病を患ったりするのを読んだとき、「うん、もしそうなったらわたしもこうしよう」と思ったものです。
暖かな部屋で、美味しいコーヒーを飲みながら読んだときは、「わたしもできる」と思ったのです。
でも、実際にほんの少しの逆境にあうと、自分でも驚くような反応をしてしまいました。それは、わたしの罪の結果、あるいは人から受けた傷が癒されていないため、つまり、霊的にも精神的にも健康ではないので、古傷の上にまた新たな傷をつけられ、過剰反応を起こしてしまったのだと後で知りました。
ミオのセミナーに参加された方は、ミオが表を使って癒しの祈りの説明をするのを聞いたことがおありでしょう。
これらの表を使って祈るやり方はミオ独自のもので、彼のこれまでの経験を基にあの祈り方は生まれました。
セミナー中の説明では足りないかも知れませんので、わたしがミオから習ったことを補充しながら説明していきたいと思います。
次回は、一番目の「わたし自身が犯した罪による苦しみ」からの癒し、つまり、「個々の人生の癒しの祈り方」について、お話ししてみようと思います。