38. 信頼に満ちた委託(ドン ドリンド神父)
信頼に満ちた委託について
イエスに全信頼を寄せ自己を明け渡す行為について(訳者による副題 )
1970 年 11 月 19 日、かつて聖パードレ ピオから「あなたの魂の中に全天国が存在する」と言われたことかのあるひとりの司祭が、88 歳でその生涯を閉じました。
この司祭の名はドリンド・ルオトロ(Don Dolindo Ruotolo)といいました。「ドリンド」とは「苦しみ、痛み」という意味であり、実にドリンド神父の生涯はこの「苦しみ、痛み」に彩られたものでした。幼少期に始まり、青年期、神学生時代、そして司祭になってからも、彼の人生は屈辱に次ぐ屈辱の連続でした。 「あなたは殉教者になるでしょう。しかし、それは血による殉教ではなく、心の殉教でしょう」と、ある司教が彼に言った預言的言葉が現実のものとなりました。
大きな苦しみの中で、ドリンドはますます父なる神に自分自身を委ね尽くす神の子供となって行きました。 「私は哀れな存在です。無、そのものです。私の力は祈り、私の導き手は神のみ旨です。 でこぼこ道を歩むのを守ってくださるのは御母マリアです。」
神は彼の信頼に満ちた委託に対して、御自らがこの謙遜な魂に語るという親密さで応えられました。 人生で出会う試練について神ご自身がドリンド神父を通して語られたことを、イエスが『私に』個人的に語られた言葉として聞きましょう。
もし、舟の中で主が眠っていらっしゃるように思われるなら、今、私たちがすべきことは、『嵐で揺れる小舟の中を信頼しきって主のもとに進み、主にすべてを明け渡し、あらゆる助けを主からだけいただけるよう待ち望む』、ということです。
それではイエス様の言葉を聞きましょう。
なぜあなた方はそうもたやすく不安になり混乱するのか?
さあ、あなたの心配事を私に明け渡しなさい。そうすれば、何もかもが安らぐのだから。
まことに私は言う。私に対する信頼に満ちた、本物の、完全な委託の行為は、あなた方が切に望む結果を生じさせ、茨に満ちた苦しみの状態からあなた方を解放するのだ。
私にあなた自身を委ねるということは、『不安になり、動揺し、絶望し、それからようやく私の助けを求めて感情的な祈りを私に向ける』、ということではない。
そうではなく、むしろ私があなたを向こう岸に連れて行けるように、心の目を静かに閉じて、あたかも 母の胸に眠る幼な子のように 私に完全に任せきるということなのだ。
あなたを混乱させ害するのは、あれこれの思い煩いや自分の抱える問題、労苦である。しかも、あなたは何が何でもすべてを自分の力で行わなければならないと思い込んでいる。
もしも霊魂が、霊的、物質的な必要のために私に心を向け、目を閉じて私の中に憩いながら『あなたが計らってください!』と信頼を込めて言うなら、私はどれほど多くの業(わざ)を行えることか。
あなたがあれこれと思い悩んでも、ほんの少しの恵みしか受けることはできない。しかし、あなたの祈りが、自分自身を完全に私に委ね切ったものであるなら、豊かな恵みを受けることになる。
苦しいとき、あなたはその苦しみを取り除いてくださいと私に祈る。それも あなたが思い描く通りに聞き入れてもらいたがる。 確かにあなたは私に心を向けはするが、あなたの考えに私の方が合わせることを望むのだ。それではまるで、医者に治療を頼みながら治療の方法を医者に指図(さしず)する病人のようではないか。
いや、そのようにしてはならない。私が『主の祈り』の中で教えたように祈りなさい。 「み名が聖とされますように」とは、「私のこの苦境において、あなたに栄光がありますように!」という意味だ。「み国が来ますように!」とは、 「あなたの御国(みくに)を私たちと世界の中に造り上げるために、すべてのことが役立ちますように」。 そして、「み心が天に行われるように地にも行われますように」とは、「私のこの問題において、私のこの世の命と永遠の命にとって、より良いとあなたが思われる通りに計らってください」ということなのだ。
もし、あなた方が私に向って本心から「み旨が行われますように」、あるいは「あなたが計らってください」と言うなら、私は神なる全能の力を以って介入し、 最も困難な問題、絶望的な状況をも解決するだろう。
もし状況が良くなるどころか悪化するのを見る時、あなたはどうするか? いや、動揺してはならない! 再びあなたの魂の目、心の目を閉じて、信頼し切って私に言いなさい。 「み旨が行われますように。主よ、あなたが計らってください」と。
そうすれば、医者が患者の面倒を見るように、神なる全能の力によって私があなたを助けると約束をしよう。必要とあらば、奇跡をも起こそう。だから、あなたの状況が悪化したとしても動揺してはならない。心の目を閉じて、「主 よ、あなたが計らってください!」と言いなさい。 そうするなら、「私が計らう!」と約束しよう。
何かについて心配したり不安を抱いたり、自分の考えでことを行なおうとするのは、本当の委託とは逆の行為である。それはまるで、自分の欲求を満たしてくれと母親に駄々をこねる子供のようではないか。もし、子供たちが何から何まで自分でやり遂げようとするなら、彼らの考えや感情が、母親からの本当に必要な助けを妨げることになりはしないか。
だから、あなたの『自己』の目を閉じ、あなたの中で私が働くままに任せなさい。静かに目を閉じ、内なる眼差し(まなざし)を私だけに向けなさい。将来に関するあなたの考えは、試みのひとつとして断ち切りなさい。 私の中で安らぎなさい。 私の善良さを信じなさい。あなたがこのような心で私に向かい、「あなたが計らってください!」と言うなら、私が完璧に世話をし、あなたを慰め、自由にし、導くことを、『私の愛』において保障しよう。
たとえ、あなたが考えている道とは別の道に導かなければならないとしても、私はあなたを腕に抱えて行こう。なぜなら、私の愛の介入以上に効き目のある薬はないのだから。
しかし、次のことを心に留めておきなさい。私の計らいは、あなたの内的眼差しが私に向けられているときだけ、つまり、あなたが私の介入を心から望み、 完全に私に信頼しているときだけ起こるのだということを。
そう、あなたがすっかりと私に委ねきっているときにだけ、私が計らおう!
あなたがすべてを判断し、検討し、何から何まで調べ上げてあらゆる事を考えようとするなら、不眠症になってしまうだろう。しかもこのとき、あなたは自分の『自己』という単なる人間的力により頼む。 あるいはもっと悪いことには、誰かの助けを信用することによって『人間』の介入に依り頼むのである。 このようなことは、あなたに対する私の計画の妨げとなる。
あなたに賜物を与えられるように、ああ、私はどれほどあなたからの本物の委託を望んでいることか。あなたが不安になり絶望する様子が、どれほど私の心を痛めることか。
まさに、それがサタンの狙いだ。サタンは、なんとしてでもあなたを不安と絶望におとし入れ、私の業(わざ)と愛からもぎ取り、あなたがまったく人間的な考えと行動に身を任すように仕向けるために全力を尽くすのだ。
だからこそ、私にのみ信頼しなさい! 私の中で憩いなさい! 万事において私に委ねなさい! 私に対するあなた方の信頼の完全さと、自分自身に対する不信の度合いに応じて、私は奇跡を行おう。すべてについて論じ、自分の力で検討するような人が奇跡を起こしたことはない。 自分自身を完全に神に与え尽くし捧げ尽くした人だけが、神と共に奇跡を行うのだ。
たとえ事態がさらに混乱したとしても、いつも、心の目を閉じて言いなさい。「イエスよ、あなたが計らってください!」と。 そして、あなたの『自己』の考えから離れなさい。なぜなら、あなたの落ち着きのない分別は事態をさらに悪化させ、私により頼むことをほとんど不可能にするからだ。困難な事態に陥ったなら、いつも自己から離れなさい。どんな状況のときもそうしなさい。そうすれば、あなたは大いなる奇跡、静かで持続性のある奇跡を体験するだろう。それは人の目を引くようなものではないが、あなたにとっては偉大な奇跡であり、私に対する本当の信頼と愛を強めることになるだろう。 私、あなたの神が、それらを計らおう。私が計らうと保障しよう。
いつもこのように委ね切った心で祈りなさい。そうすれば、あなたは大いなる内的平安と、私の愛のまことの実りを受け取ることになる。
たとえ私が、犠牲、償い、愛を要求するときも、つまり、あなたに苦しみの十字架という賜物を与えるときでさえも、私に委ね切って祈りなさい。
このようなことは不可能に思えるだろうか?
ならば、再び目を閉じ、まなざしをあなたの内部に注ぎ、心の底から祈りなさい。 「イエスよ、あなたが計らってください!」と。
恐れる必要はない。私が計らう。私があなたの世話をする。 そうして、あなたはすっかりと謙遜になり、私の名を賛美するようになるだろう!
私たちのどのような祈りよりも、完全な信頼を込めて行うたったひとつの委託の行為ほど主のみ心に叶うものはありません。 ですから、委託の祈りのノヴェナほどに力強い祈りはないと言えましょう。
《おおイエスよ、私のすべてを委ねます。あなたが計らってください!》
–———————————————————————————————————訳終了
◎2006年:この文章は「御心の勝利」の記事の一部をドイツ語から自分自身の黙想のために邦訳したものです。
◎2016年訳の見直しをしました。
◎このプリントが人の手に渡っていることを知りましたので、2018/05/13に三度目の訳のチェックをしました。直訳ではなく、日本語の表現に重点を置きました。私訳ですので、ご利用になるときはご自分の責任でお願いします。 suzume
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SUZUMEから一言
この祈りは、10年以上前に「マリアの家族」を通して知りました。「マリアの家族」の司祭が、ごミサを捧げた後に信者席について静かに目を閉じ、やがてご聖櫃に向かって跪き「Sorge Du!」という祈り(「おお、主よ、私のすべてを委ねます。あなたが計らってください」)をロザリオの珠を繰りながら祈っていた姿が、今でも目の前に浮かびます。
今回、訳し直してみて、ミオが私たちに教えてくれる、三つのステップ「この状況を受け入れ、この状況に感謝し、この状況に主が慈しみと愛を以って介入し、栄光を現してくださいますよう祈る」とは同じことではないかと思いました。
私は10年以上この祈りをしていることになりますが、「完全に自分を捨てて、イエスに信頼しきる」というのは、そう簡単ではないことを実感しています。
だからこそ、このように祈る必要があるのだと、改めて思いました。
上の訳の最後に出てくる、ノヴェナとはどんなものかを調べてみましたが、わかりませんでした。イタリア語の動画は見つけたのですが、理解できません。
でも、例えば、「マリアの家族」の司祭たちがしているように、ロザリオを使って9日間「主よ、あなたが計らってください」の祈りを祈るのもいいかもしれませんね。
主に栄光!